錦木塚物語
今から約1600年ほど前(仲哀天皇のころ)鹿角市十和田錦木は狭布の里とよばれ、京より下った郡司狭名大夫が治めていた。
大夫から八代目狭名の大海には、政子姫という美しい姫がいて、姫は狭布の細布を織ることがたくみであった。
また、草木(鹿角市十和田草木)には、錦木を売ることを仕事にしていた若者が住んでいた。
錦木とは、楓木、酸木、かば桜、まきの木、苦木の五種の木の枝を三尺(約90cm)あまりに切り一束としたものである。これは別名「仲人木」といい、縁組に用いられるものである。
ある日、若者は赤森の市で政子姫の美しい姿に心をうばわれてしまう。
毎日毎日、若者は政子姫の門前に錦木を立てた。当時は、女の家の門前に錦木が立てられ、家の中に入れられると、男の気持ちが通じたものとする風習があったという。
若者は姫の姿を見てから雨の降る日も風の吹く日も雪のふぶく日も、錦木を運んだ。
しかし、錦木はむなしく積み重ねられるだけであった。
姫は機織る手を休め、そっと若者の姿を見つめるようになった。いつの間にか、姫は若者の心をあわれむようになっていた。しかし若者が門前に錦木をいくら高く積んでも、姫は若者の心を受け入れることはできなかった。
なぜなら…
鹿角の東方に五の宮嶽という山があり、そこには、大ワシが住んでいて、古川の里に飛んできては、子どもをさらっていっていた。そして、子どもを持つ親は、仕事を休んで子どもを守らなければならなかった。
あるとき、若い夫婦が、幼い子どもをさらわれて、なげき悲しんでいた。
そこへ、みすぼらしい格好をした旅の僧が立ち寄り、「もしもし、どうなされた。どうしてそんなに、なげき悲しんでおられるのじゃ」とたずねた。
夫婦は、「大ワシが、わたしたちのかわいい子どもをさらっていきました。その大ワシはあそこに見える五の宮嶽に住んでいます。取り返すこともできず悲しんでいるのです」と答えた。
僧は、「それは、お気の毒なことだ。よいことを教えて進ぜよう。子どもたちに鳥の羽をまぜた織物を着せなさい。するともう大ワシは、子どもたちをさらっていけなくなりますよ」というと、どこへともなく立ち去って行った。
鳥の毛をまぜた布は、よほど機織りが上手でなければ作れない。機織りの上手な政子姫は多くの人々に頼まれていた。姫も親の悲しみを自分のことのように思い、三年三月を観音様に願をかけ、布を織っていたのである。その祈願のため、姫は若者の心を受け入れることができなかったのである。
若者は、そうとは知らず、せっせと錦木を姫の門前に立てつづけた。
あと一束で千束になるという日に、若者は門前の降り積った雪の中で帰らぬ人となっていたという。姫もまたその日から、二、三日後に若者のあとを追うかのように、この世を去っていった。
父、大海は、ふたりをあわれに思い、千束の錦木とともにひとつの墓に夫婦としてほうむったという。
その墓は、錦木塚と言われ、今も残っている。
更新日:2024年02月01日