ダンブリ長者

更新日:2024年02月01日

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ダンブリとは、鹿角の方言でトンボのことで、ダンブリによって、ある貧しい夫婦が長者となった物語である。

むかし、第26代継体天皇のころ、独鈷とっこ(大館市比内町)に勤勉な娘が住んでいた。この娘は16歳のときに両親を亡くし、毎日悲しみにくれていた。

そして、ある夜、夢をみた。

白髪の老人が現れ、「おまえの夫となる人は、この川上にいる。その男の働きはおまえだけには普通の男の二倍に見える。たずねていってうがよい」と言った。

娘は神のお告げと思い、米代川よねしろがわをさかのぼった。日の沈むころ、小豆沢あずきさわの山中で一人の男を見た。この男の働きぶりは、一本の柴を刈れば二本倒れ、二本刈れば四本倒れるというありさまであった。娘はこの男こそ夢に告げられた夫であると思い、その話をすると、若者は、老父の許しをえずに結婚はできないといい、家に一緒に行って、事の次第を老父に語った。

話を聞いた老父は、結婚を許した。

この老父と若者は、小豆沢(鹿角市八幡平)の根元ねもと(この村の始まりの所)に住んでいた。この一家は、生活は貧しかったが正直者であった。

ある年の元旦、若者の枕辺まくらべ老翁おきな忽然こつぜんと現われ、「われは大日神である。川上にいき、住むがよい。そうすれば長者となるであろう。ここは霊地である。われが鎮座ちんざ五穀ごこくを育てる。ただちに去るがよい」といった。

若者が起きると全身汗にぬれていた。妻に「これ、おまえ、起きてくれ。今、不思議な夢をみた」というと、妻もまた同じ夢をみたという。

夫婦は土を高く盛り上げ、その上に木をくしにけずって突き刺し、先に紙を切ってはさみ、供物くもつを備えて祈った。

けて正月二日、若者は老父を背負い、夫婦は連れだって川上へ向かった。平間田ひらまた(岩手県八幡平市)に辿りつき、ここで田畑を切り開き、農業にいそしんだ。

ある日のこと、畑で働いていた夫婦は、暑さと疲れのため、うとうとと眠ってしまった。すると、何か若者の唇にふれるものがある。蚊のいたずらかと、手で追いのけようとしたが、三度も四度も唇にふれる。それは、ダンブリが口に尾をつけていたのである。

若者は、名酒を飲んだ夢を見た。それはいまだかつて口にしたことのない芳醇ほうじゅんな酒であった。男は妻を起こし、その話をすると妻もまた同じ夢をみていたという。二人は、「これは、神様のお告げにちがいない。ダンブリの飛んでいった方に行ってみよう」

ダンブリのあとを追っていくと、岩の間から一条の泉がき出ていた。泉を手で汲んで口にすると、甘露かんろのような酒であった。二人は神に感謝し、やがてこれをみんなに分けてやった。この霊酒れいしゅを飲んだ人は、どんな病もたちどころに治った。汲めども汲めども霊泉はつきない。この話が 近隣四方きんりんしほうにひびきわたり、多くの人々が集まって暮らした。米をとぐ小川は川下まで白く流れ、澄むことがなかったという。鹿角を縦断じゅうだんして流れる米代(米白)川の名の起源きげんである。

さて夫婦は、霊酒のおかげで巨万の富を得て、この国第一の長者となった。今でも平間田の近くの長者屋敷には、その跡だという屋形の礎石そせきが残っている。

多くの人々は「長者」「長者」と呼んだが、当時、長者というのはお上の許しがなくては名乗ることはできなかった。夫婦は長者号拝領のため、一人娘桂子姫をともない京へのぼった。桂子姫はたいそうな美女で、その美しさにうたれた天皇から「仕えよ」という御言葉をいただいた。桂子姫は、名を吉祥姫と改め、後宮の羨望せんぼうの的となった。

時は過ぎ、長者夫妻もこの世を去った。きさきとなった吉祥姫は、京にいて両親の逝去せいきょを聞いた。

このことを天皇に申し上げると、「神は国家の守護である。長者が崇拝すうはいした大日神の社を長者の古里に建立こんりゅうしなさい」と言われた。

そこで小豆沢村(鹿角市八幡平)に大日堂が建立されたのである。継体天皇17年のときである。

父母がともにあの世に旅立たれたのが、傷心のもととなったのか吉祥姫も病床につき、とうとう不帰の人となった。

吉祥姫の遺言は、「わたしを古里の土中に埋めてほしい」というものであり、大日堂のそばに埋葬され、墓印として銀杏の杖が立てられ、吉祥院という寺も建てられた。

銀杏の杖は大樹となったが、昭和53年3月の嵐でたおれ今はない。

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