ダンブリ長者
ダンブリとは、鹿角の方言でトンボのことで、ダンブリによって、ある貧しい夫婦が長者となった物語である。
むかし、第26代継体天皇のころ、独鈷(大館市比内町)に勤勉な娘が住んでいた。この娘は16歳のときに両親を亡くし、毎日悲しみにくれていた。
そして、ある夜、夢をみた。
白髪の老人が現れ、「おまえの夫となる人は、この川上にいる。その男の働きはおまえだけには普通の男の二倍に見える。たずねていって連れ添うがよい」と言った。
娘は神のお告げと思い、米代川をさかのぼった。日の沈むころ、小豆沢の山中で一人の男を見た。この男の働きぶりは、一本の柴を刈れば二本倒れ、二本刈れば四本倒れるというありさまであった。娘はこの男こそ夢に告げられた夫であると思い、その話をすると、若者は、老父の許しをえずに結婚はできないといい、家に一緒に行って、事の次第を老父に語った。
話を聞いた老父は、結婚を許した。
この老父と若者は、小豆沢(鹿角市八幡平)の根元(この村の始まりの所)に住んでいた。この一家は、生活は貧しかったが正直者であった。
ある年の元旦、若者の枕辺に老翁が忽然と現われ、「われは大日神である。川上にいき、住むがよい。そうすれば長者となるであろう。ここは霊地である。われが鎮座し五穀を育てる。ただちに去るがよい」といった。
若者が起きると全身汗にぬれていた。妻に「これ、おまえ、起きてくれ。今、不思議な夢をみた」というと、妻もまた同じ夢をみたという。
夫婦は土を高く盛り上げ、その上に木を串にけずって突き刺し、先に紙を切ってはさみ、供物を備えて祈った。
明けて正月二日、若者は老父を背負い、夫婦は連れだって川上へ向かった。平間田(岩手県八幡平市)に辿りつき、ここで田畑を切り開き、農業にいそしんだ。
ある日のこと、畑で働いていた夫婦は、暑さと疲れのため、うとうとと眠ってしまった。すると、何か若者の唇にふれるものがある。蚊のいたずらかと、手で追いのけようとしたが、三度も四度も唇にふれる。それは、ダンブリが口に尾をつけていたのである。
若者は、名酒を飲んだ夢を見た。それはいまだかつて口にしたことのない芳醇な酒であった。男は妻を起こし、その話をすると妻もまた同じ夢をみていたという。二人は、「これは、神様のお告げにちがいない。ダンブリの飛んでいった方に行ってみよう」
ダンブリのあとを追っていくと、岩の間から一条の泉が湧き出ていた。泉を手で汲んで口にすると、甘露のような酒であった。二人は神に感謝し、やがてこれをみんなに分けてやった。この霊酒を飲んだ人は、どんな病もたちどころに治った。汲めども汲めども霊泉はつきない。この話が 近隣四方にひびきわたり、多くの人々が集まって暮らした。米をとぐ小川は川下まで白く流れ、澄むことがなかったという。鹿角を縦断して流れる米代(米白)川の名の起源である。
さて夫婦は、霊酒のおかげで巨万の富を得て、この国第一の長者となった。今でも平間田の近くの長者屋敷には、その跡だという屋形の礎石が残っている。
多くの人々は「長者」「長者」と呼んだが、当時、長者というのはお上の許しがなくては名乗ることはできなかった。夫婦は長者号拝領のため、一人娘桂子姫をともない京へのぼった。桂子姫はたいそうな美女で、その美しさにうたれた天皇から「仕えよ」という御言葉をいただいた。桂子姫は、名を吉祥姫と改め、後宮の羨望の的となった。
時は過ぎ、長者夫妻もこの世を去った。后となった吉祥姫は、京にいて両親の逝去を聞いた。
このことを天皇に申し上げると、「神は国家の守護である。長者が崇拝した大日神の社を長者の古里に建立しなさい」と言われた。
そこで小豆沢村(鹿角市八幡平)に大日堂が建立されたのである。継体天皇17年のときである。
父母がともにあの世に旅立たれたのが、傷心のもととなったのか吉祥姫も病床につき、とうとう不帰の人となった。
吉祥姫の遺言は、「わたしを古里の土中に埋めてほしい」というものであり、大日堂のそばに埋葬され、墓印として銀杏の杖が立てられ、吉祥院という寺も建てられた。
銀杏の杖は大樹となったが、昭和53年3月の嵐でたおれ今はない。
更新日:2024年02月01日