恩徳寺弥陀三尊の由来
花輪の阿伽井趾山恩徳寺に安置されている木造の仏像に、阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩の弥陀三尊がある。
この三体は天平年中に、名僧行基が彫刻して、讃岐国志渡浦にある道場寺に奉安した尊像であると伝えられている。
どうしてこの三体の仏像が花輪に伝わってきたのかについては、次のような伝説がある。
源頼朝は、治承4年以仁王の令旨をうけて挙兵した。
この時、奥州にあって身を潜めていた弟義経は、兄頼朝が平氏追討の兵を挙げたと聞き、佐藤三郎継信、四郎忠信をはじめ、亀井六郎、片岡八郎、武蔵坊弁慶など奥州出羽の兵を引き連れて駆け参じた。この時、鹿角から従軍した者は、安保氏の大里行包、花輪次郎行房、秋本氏の黒土六郎、高瀬七郎の四人であった。
こうして義経に従い、京、大阪を回復し、四国まで平家軍を追った鹿角武士の四人は、屋島の戦いの乱軍の間に、とうとう壮烈な戦死をしてしまった。
主人を失った四人の部下たちは、この様子に呆然としながら、「この度の戦いは、見る通りの源氏の大勝に終わった。しかし、われわれは不運にして、各主君を失ったことはこの上ない痛恨事である。今まさに望みの綱を失ってしまった。さればといって、他の主君に仕えることは、二君に仕えることとなり勇者の本意ではない。さればといって主君を失って帰国するのは何の面目あって父老にまみえんやである。けれども、帰国しなければ誰あって、主君の戦死を告げ知らせる者もない。われわれはこう考えた時に、進退全く極まり、両難解け難く、ほとほと困った場合に逢ってしまった。如何にすべきであろう」と互いに嘆き合ったのである。そうしているうちに、次のように言うものがあった。
「さてこの両難を突破するには、古賢を手本として進退を決めるより外にないではないか。その古賢の手本とは即ち、熊谷次郎直実でさえも出家したという一事である。この場合、武士の甲冑をぬぎ捨て、いさぎよく法師の身となって主君の菩提を弔うべきではないか、この外によい案はないと思うがどうだ」
一同この妙案にもっともと同意し、即座に髪をたち切り、出家の姿になってしまった。次にはまず主君の亡骸を葬るべしというので、数千の屍の中から主君四人の死骸をたずね出そうと、あちらこちらをまわってようやく捜しあて、直ちに道場寺にこれを葬ることが出来たのである。
こうしてひと安心したものの、武士の面目まことに悲壮を極めたものであった。
屋島の戦いのあと、その兵火の余波は神社や仏閣にまで及び、あるものは灰燼となり、またあるものは瓦礫の山と化し、仏像を始め経文一切何れも雨にさらされ、風に吹きまくられて、悲惨な有様であった。
鹿角出身の新法師たちは、この惨状を眺めながら、「いやいやこれも、仏の因縁である。あたら神仏を風雨にさらして空しくすることは、全くもったいないこと、われらこの尊像を持ち帰ることにしよう」といって、それぞれ仏像を拾いとり、京をさして引き上げた。京都では、巧みな工匠を頼んで笈を造り、これに仏像をおさめて六十六部の姿となり、念仏を誦しながら長い道中を経て故郷へ戻ったのである。
四人の法師は、おのおの主君の菩提を弔うために、御堂を建てて尊像を安置した。花輪次郎の従者の法師は、石鳥谷の赤石という所に庵室を立て、主君の恩徳に報ずる意味から恩徳庵と号して、四六時中仏事と読経を怠らず勤めた。
そのうちに大里の尊像は、不幸にも火事で焼失し、黒土の本尊は石鳥谷に移して奉安してあったが、桧山合戦の折に焼けてしまった。また、高瀬村の本尊は花輪の徳正寺という寺に移されたというが、いつの頃からか所在不明となっている。現在は、赤石にあった弥陀三尊のみが花輪の恩徳寺に残されている。この木造弥陀三尊は、中尊は阿弥陀如来で、脇侍として観音菩薩、勢至菩薩が従っている形であり、三尊とも極楽浄土よりきて、念仏の行者を迎える様相を示している。中でも中尊の阿弥陀如来像は、俗に「黒仏さん」と呼ばれ、人体に悪いところのある人はこの仏像の同じ部分をさすって拝むと、その部分の病気が治ると信じられてきた。こうして長い年月の間、病気を治したい人々にさすられた所が黒光りしているので「黒仏さん」と呼ばれているのである。また。明治31年に恩徳寺が火災があった時も、この三体の仏像だけは、そっくり無事であったと言われている。
更新日:2024年02月01日