芦名沢の観音さま
奈良時代の頃、鹿角に孫七長者という有名な長者が住んでいた。その長者には、一人の跡取り息子があった。
また、砂沢(鹿角市十和田山根)には、成田市兵衛という豪族が住んでいた。その豪族には、玉のように美しい姫が一人いた。
この二人は、いつの間にかお互いに仲よくなり、一緒に暮らしたいと思うようになった。
ところが、長者と豪族は、昔からけんかが絶えず、どう考えても、この一人息子と一人の姫の結婚は許されそうになかった。
そのうちに、美しい姫は長者の息子恋しさに、とうとう病になり、床に臥すようになった。
また、息子の方も姫が病気になっていると聞き、どうしても見舞いに行ってやりたいと思ったが、親たちの仲を考えると、とてもかなえられる望みではなかった。
ある晩、病気の姫に一目逢いたいと、豪族の館のまわりを歩いていた長者の息子は、豪族の家来たちに、怪しい曲物とばかりに取り囲まれ、捕えられてしまった。
次の日、豪族の家では、「昨夜の曲者は捕えて打首にし、姫もその曲者に殺されてしまった」といいふらし、あわただしく葬式を済ませた。
しかし、姫の両親は、殺されたはずの姫と打首にしたはずの長者の息子を、晴れて夫婦にし、その夜のうちに鹿角の地から、遠くに旅立たせてやったのである。
そして、二人の身がわりに、牛馬長根に放牧されていた馬二匹を連れてきて、荒むしろに包み、これは姫の墓だ、これは曲物の墓だといって、二つの墓に生き埋めにした。
のちに、長者は、打首にされた曲物がわが息子であることを知ったが、相手が豪族ではどうすることもできず、毎日毎日、一人息子を思い出して、悶々の暮らしをしていた。
無事鹿角をはなれた二人は、思いがかなえられた嬉しさによろこびあいながら、旅から旅へと諸国を巡り歩いていた。
そのうちに、長者の息子の方は不幸にも旅の途中で病気になり、とうとう死んでしまった。
残された姫は、嘆き悲しんだが、どうすることもできず、野辺の弔いをすませて、頼る人もなくなり、また旅を続けて故郷に帰った。
故郷に帰りついた姫は、昔を思い出し、自分たち夫婦のために、身がわりとなって埋められた二匹の馬を哀れに思い、生き馬を埋めた森のほとりに庵をたて、夫の霊と罪なき馬の 冥福を祈り、毎日毎日、念仏回向をして暮らしていた。
年月が過ぎ、懺悔の中で病の床についた姫は、世のはかなさを深く感じ、「今まで、亡き者の冥福を祈ってきたが、わが亡き後も、わが霊に香華を手向ける者にはきっと良い馬を授けよう。また、その子孫はかならず繁盛するであろう」と、まわりの人々に告げ、静かに息をひきとった。
一方、長者は、月日が経つにつれて、わが息子の打首はニセであったことや、旅に出て病死したことも、豪族の思いやりであったことを知り、今までの怒りも忘れて、先に死んでしまった息子や、二匹の馬の菩提をとむらいながら暮らしていた。
その後、はるばる都に登り、観世音菩薩像を申し受けて帰郷し、御堂を立てて祀り、朝夕、念仏三昧の日を送った。
後にこの堂は、金光明寺十一面観世音堂といわれ、近郷近在の信者が門前に市をなして集まるようになった。
また、平安時代の貞観年間には、慈覚大師という有名な坊さんが立ち寄り、観音像一帯を彫刻して奉納し、「陸奥をかきわけ行けば芦名寺の栄うためしに法の華山」という和歌を詠んで立ち去ったといわれている。
さらに時は移り、江戸時代には、毛馬内氏や桜庭氏などの信仰が厚く、明治以降は軍馬の神様として、東北地方一帯から信者が絶えなかった。
こうした信者たちが奉納した絵馬は、今も神社にたくさん保存されてあり、中には著名な地方画家の描いたものも保存されている。
また、この観音堂の近くには慈覚大師が仏像を刻む時、参籠したといわれる岩窟や、水籠を取った時に衣を乾した衣掛けの巌などの奇景もある。
更新日:2024年02月01日