芦名沢の観音さま

更新日:2024年02月01日

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奈良時代の頃、鹿角に孫七まごしち長者という有名な長者が住んでいた。その長者には、一人の跡取あととり息子があった。

また、砂沢(鹿角市十和田山根)には、成田市兵衛という豪族ごうぞくが住んでいた。その豪族には、玉のように美しい姫が一人いた。

この二人は、いつの間にかお互いに仲よくなり、一緒に暮らしたいと思うようになった。

ところが、長者と豪族は、昔からけんかが絶えず、どう考えても、この一人息子と一人の姫の結婚は許されそうになかった。

そのうちに、美しい姫は長者の息子恋しさに、とうとうやまいになり、とこすようになった。

また、息子の方も姫が病気になっていると聞き、どうしても見舞いに行ってやりたいと思ったが、親たちの仲を考えると、とてもかなえられる望みではなかった。

ある晩、病気の姫に一目ひとめ逢いたいと、豪族の館のまわりを歩いていた長者の息子は、豪族の家来たちに、怪しい曲物くせものとばかりに取り囲まれ、捕えられてしまった。

次の日、豪族の家では、「昨夜の曲者は捕えて打首にし、姫もその曲者に殺されてしまった」といいふらし、あわただしく葬式を済ませた。

しかし、姫の両親は、殺されたはずの姫と打首にしたはずの長者の息子を、晴れて夫婦にし、その夜のうちに鹿角の地から、遠くに旅立たせてやったのである。

そして、二人の身がわりに、牛馬うしま長根に放牧されていた馬二匹を連れてきて、荒むしろに包み、これは姫の墓だ、これは曲物の墓だといって、二つの墓に生きめにした。

のちに、長者は、打首にされた曲物がわが息子であることを知ったが、相手が豪族ではどうすることもできず、毎日毎日、一人息子を思い出して、悶々もんもんの暮らしをしていた。

無事鹿角をはなれた二人は、思いがかなえられた嬉しさによろこびあいながら、旅から旅へと諸国をめぐり歩いていた。

そのうちに、長者の息子の方は不幸にも旅の途中で病気になり、とうとう死んでしまった。

残された姫は、嘆き悲しんだが、どうすることもできず、野辺のべとむらいをすませて、頼る人もなくなり、また旅を続けて故郷に帰った。

故郷に帰りついた姫は、昔を思い出し、自分たち夫婦のために、身がわりとなって埋められた二匹の馬をあわれに思い、生き馬を埋めた森のほとりにいおりをたて、夫の霊と罪なき馬の 冥福めいふくを祈り、毎日毎日、念仏回向ねんぶつえこうをして暮らしていた。

年月が過ぎ、懺悔ざんげの中で病の床についた姫は、世のはかなさを深く感じ、「今まで、亡き者の冥福を祈ってきたが、わが亡き後も、わが霊に香華こうげ手向たむける者にはきっと良い馬をさずけよう。また、その子孫はかならず繁盛はんじょうするであろう」と、まわりの人々に告げ、静かに息をひきとった。

一方、長者は、月日がつにつれて、わが息子の打首はニセであったことや、旅に出て病死したことも、豪族の思いやりであったことを知り、今までの怒りも忘れて、先に死んでしまった息子や、二匹の馬の菩提ぼだいをとむらいながら暮らしていた。

その後、はるばる都に登り、観世音菩薩像かんぜおんぼさつぞうを申し受けて帰郷し、御堂おどうを立ててまつり、朝夕、念仏三昧ざんまいの日を送った。

後にこの堂は、金光明寺こんこうみょうじ十一面観世音堂といわれ、近郷近在きんごうきんざいの信者が門前に市をなして集まるようになった。

また、平安時代の貞観じょうかん年間には、慈覚大師じかくだいしという有名な坊さんが立ち寄り、観音像一帯を彫刻して奉納ほうのうし、「陸奥みちのくをかきわけ行けば芦名寺の栄うためしにのりはな山」という和歌をんで立ち去ったといわれている。

さらに時は移り、江戸時代には、毛馬内氏や桜庭氏などの信仰が厚く、明治以降は軍馬の神様として、東北地方一帯から信者が絶えなかった。

こうした信者たちが奉納した絵馬は、今も神社にたくさん保存されてあり、中には著名ちょめいな地方画家の描いたものも保存されている。

また、この観音堂の近くには慈覚大師が仏像を刻む時、参籠さんろうしたといわれる岩窟がんくつや、水籠みずごりを取った時に衣を乾した衣掛けのいわおなどの奇景きけいもある。

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