山芋の好きな役人さま

更新日:2024年02月01日

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今から450年も前のことである。

南部藩の役人で、北十左衛門信連きたじゅうざえもんのぶつらという侍が、秋田藩の比内ひない郡との境目検分さかいめけんぶんのため石野村(鹿角市十和田瀬田石)に来た。

その時、一人の老婆ろうばが、幼い二人の孫の手を引きながら、役人様にお願いがあると訴え出た。

「わしは石野村に住む百姓で、げんと申します。これは太郎っこ、次郎っこと申すわしの孫でございます。この二人の両親は早く死にましたので、わしが育てて苦労してやっと大きくいたしました」と、両側にすわった孫の頭をでながらいった。

「つきましては、幼い孫たちの山林、田畑が伯父にあたる人にだまし取られたので、何とかして役人様の手で取り返していただきたくお願いにまいりました。自分の命はもう長くないので、孫たちの行末ゆくすえのことを思うと悲しく、何としても命のあるうちに土地を取り戻し、孫たちが安心して暮らせるのを見届けてから死にたいと思います。どうか、この老婆のお願いを聞いて、お調べください」と、げん老婆は涙を流して訴えた。

十左衛門は、長い老婆の話を黙って聞いたあとに、「証拠になるものはあるか」と聞いた。

老婆は、先祖が殿様からいただいた何通かの証文しょうもんを差し出した。

その書き付けを確かめると、二人の孫たちの先祖が郷士であること、永禄年中に軍功があって毛馬内氏から感状をいただいたことや、「山林、田畑を永代無役手作りなさしむべし」という証文があることから、げん老婆のいうことは真実であることがわかった。

また、石野村の百姓たちも口々に、「げん老婆のいうことは、ほんとうのことです」と証言した。

十左衛門は、げん老婆の訴えを取り上げ、土地をだまし取った伯父を罰して、裁きはめでたく終わった。

げん老婆は、「これは孫たちが掘った山の芋です。少しばかりですが、お礼のしるしに受け取ってください」と言って、藁苞わらづとに包んだ山芋を置き、喜んで、何度も礼を言いながら立ち去った。

十左衛門が、藁包から山芋を取り出してみると、山芋についた赤土の中にキラリと光る砂があることに気がついた。不思議に思い家来に命じて山芋を洗わせてみると、たらいの底の泥の中には、ピカピカ光る砂金の粒がたくさん沈んでいた。

どうしてあの老婆の持って来た山芋に砂金が付いてあったのだろう。わざわざ山芋に砂金を塗って持って来たのだろうか、それにしてはあの老婆は貧し過ぎる。と、不思議でしかたがなかった。

十左衛門は数日後、老婆をたずねた。

「この間、老婆からもらった山芋、たいそううまかった。私はあの山芋が大好きだからもっと掘って来てくれ」と頼んだ。

げん老婆は「山芋だば、うちの裏山の林になんぼでもあります。役人さまが山芋好きだば、なんぼでも掘ってきます」と言って、二人の孫たちに言いつけて山芋を掘らせ、土のままたわらにつめ、十左衛門の役所まで届けさせた。

十左衛門は大喜びであった。山芋にはピカピカ光る砂金がたくさん付いていた。

たしかに山芋についた土の中に砂金があることを知った十左衛門は、さっそく次の日、二人の孫たちに山芋を掘った林へ案内させた。

十左衛門が調べると、山芋を掘ったあたりの山は、どこを掘っても赤茶けた土の中にピカピカ光る砂金がたくさんあった。

こうして、白根しらね金山が発見され、日本無双むそうの産金をほこる鉱山となり、白根千軒と言われるにぎわいをみせるようになった。

また、金を掘り尽した後は、銅山として長く栄えた。

この白根金山の最も古い口碑こうひには、奈良の大仏様を造る時に、この白根の産金が朝廷に献上けんじょうされ、その金を塗って大仏さまが完成し、天皇さまにたいへん喜ばれた、ということが語り伝えられている。

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